コンプレックスとまではいきませんが、
私は自分が器用貧乏であることが
好きではありませんでした。
やってみたいと思った事、
興味を持って始めたことは
そこそこまでは上達するのですが、
所詮そこそこ止まり。
それに、
思ったよりも簡単にできてしまった場合
すぐに飽きてしまう。
そんな飽き性な自分に嫌気がさすことも
よくありました。
だから、
器用貧乏である事がいやだったんですよね。
それに、
何か一つ胸を張って言える得意なことがあるって、
カッコいいし。
それで私も
いわゆる”特技”を身につけたかったのですが、
ある時諦めて
器用貧乏である自分を認めて
受け入れることにしました。
見方を変えれば
器用貧乏である事が特技なわけですしね。
飽き性なのですが、
それでも何年も続いている事もあるんですよ。
だから、
『それなら、
その続いていることを
飽きるまでずっとやり続ければいい。
それが気が付いたら
私の秀でた特技になっているかもしれない。
飽きちゃってやらなくなった事はきっと、
私に向いていない、必要ない事なのだ。』
と、割り切ることにしました。
それに、
飽き性&好奇心旺盛なおかげで
色んな事に挑戦できる、っていう
捉え方だってできます。
ちょっと、こちらの記事にも関連するのですが。
当時の私は
かなりたくさんの条件、
いわゆる固定観念や思い込みに
縛られていたんですよね。
無意識レベルで、
『仕事にできるくらいの特技がないと、明るい未来は切り開けない。』
こんな思い込みを持っていたように思います。
【出口のないトンネルはないから。】
【今、どんなにしんどくても、ずっとは続かないから大丈夫。】
こういった言葉を目にする度に
『でも、私の場合は絶対に出口はないと思う!
それを、証明してやる!』と、変な決意?をするくらいに
こじれていました。
こんな風に
こじれてしまっていたのも
自分には特技がない事を分かっていて、
でも特技になりそうなものが何なのかも
分からなかったからだと思います。
だから
特技が欲しかったのですが、
こういう条件(固定概念、思い込み)が
特技がない事よりも何よりも
一番の足枷だったなと
今なら思います。
しかもね、
自分では器用貧乏だと思っていたのですが
つい最近拝見した素敵な動画で、
動画の投稿者様が
「何か一つを極めることができる自分になりたかったけれど、なれなかった。
結局、私は器用貧乏で生きていくしかない。」
みたいな事をおっしゃっていたのですが、
器用貧乏レベルで作成できる動画ではないと思ったんですよ。
本当に、すごく素敵で。
なんだか
自分の事を器用貧乏だと言う事に抵抗すら感じ始めたほどです。笑
私は、器用貧乏の中でも中の下レベルという事で。
カナダに来てから
独学で学んだものの一つがお料理です。
お料理も、
そこそこまでは上手になりました。
でも、好きではないんですよね、お料理。
嫌いというわけでもないけれど、
やりたくない時の方が圧倒的に多いです。
お料理に関しては
「飽きたから、やめよう。」
とはいかないのが、ツラいところ。
今日も、
とりあえずなにか夕飯を作ろうかと思います。