昨日の続きです。
先月の大寒波の影響で、
いつもより高いガス代にビビる私。
一方で、
私のガス代よりも高いカバンを
買ってもらった義弟。
生活費のやりくりに
未だビビる事のある私に対し、
お金の苦労や心配を知らず
楽して欲しい物を
何でも手に入れているように見える義弟。
『義弟は、自分の資質を活かして
ありのまま、素直に生きているから
欲しい物を手に入れることができているんだなぁ。』
と、穏やかに観察していられなくなりました。
だって
私も義弟のように、
自分の資質を活かして
自分声を聴いて、
自分に正直に
一生懸命生きているつもりだったから。
それなのに私は
ガス代で頭を悩まし、
義弟は欲しい物を手に入れるという現実。
虚しくなりました。
ちなみに、
義弟にばかり
金銭的援助をする義両親の事が
理解できない時期もありましたが、
そこはもう吹っ切れています。
夫と私が
本当にピンチの時には
いつでも助けてくださったし、
義両親が自分たちのお金を
どう使おうと、
私には関係のない事だから。
ところで、タイトルの
【心配するのは、余計なお世話。】
なのですが、
私は義弟の事を羨ましいと思う反面、
心配もしていました。
こんなに義両親のすねをかじりっぱなしで、
義両親がいなくなった後は
どう生きていくのだろう?と。
自分たちの生活で精一杯の夫と私は
とてもじゃないけれど
義弟の面倒は見切れませんし、
それは他の兄弟も同じです。
ですから、
義弟には一刻も早い自立と
身の丈に合った暮らしをする事を
学んでほしいと思っていたのですが、
そんなの私の知った事ではないなと
最近は思うんですよね。
義両親がいなくなったら
義弟の面倒を誰かが見ないといけなくて、
それはきっと
夫と私になるだろうと思っていたから、
まだ来てもいない未来を想像して
『なんで私と夫が
自分たちが欲しい物を買うのを我慢して、
義弟の面倒を見なあかんのよ!』
って、怒っていたのですよ。
誰からも、
義両親からすらも
『義弟の面倒見てね。』
と頼まれてもいないのに。
こうやって文章にしてみると、
義弟の面倒を見ないといけないと
思い込んでいた自分にも、
面倒を見るためには
夫も私も
欲しい物を買うのを
我慢しないといけないと思い込んでいた事、
というか、
自分たちが自己犠牲を払う事でしか
面倒を見れないと思っていた事にも
なんだか笑えてきます。
無意識の思い込みって怖いです。
いわゆる、
エネルギー漏れってやつを
やってしまっていましたね。
来るか分からない未来を心配して、
エネルギーダダ漏れです。
まだ気付きがあるのですが、
長くなってきたので
続きは次の記事で。