【喜びは倍、悲しみは半分】
こんな感じの表現があると思うのですが、
ここ最近まで
言葉の意味を勘違いしていたようです。
私は小学生の時から
結婚願望がなかったのですが、
その理由の一つが
この言葉なんですよね。
『喜びも悲しみも、自分の分だけで十分。
人の悲しみまで請け負いたくないから、
喜びも倍じゃなくていい。』
そんな風に思っていたのですよ。
小学生の時に
大好きだった祖母を突然亡くし、
その時の悲しみが
言葉では表現しきれないほど強烈で
『後何回、こんな思いをしなければいけないのだろう。』
と、うなだれました。
同時に、
『悲しみは自分に課せられる分だけで十分。
人様の分まで、手に負えない。』
そう、思い始めたように思います。
だけど、
悲しみは半分って
誰かの悲しみに共感して
自分も悲しむ事ではないのだと
最近、気付いたのです。
『相手と共に
私まで悲しんだら
悲しみが倍になってるやん!』
そう、思ったんですよね。
相手が思う存分悲しんだり
落ち込むことができるように、
私はフラットな状態で
側で寄り添う。
これが、
悲しみは半分の真意なのではないか?
そう、今は思っているのですが
正解は実のところ、分かりません。
でもまぁ、
正解なんて
存在しないとも思っていますので、
これが現在の私にとっての正解です。
相手が悲しんでいたり
落ち込んでいる時に、
励まそうとしていた時期がありました。
だけどそれって、
相手にとって
ものすごく酷な事だと
今は思っています。
相手を励ましたかった理由は、
相手が落ち込んでいる姿や
悲しんでいる姿を見るのがつらいから。
その姿を見るのを終わりにしたい。
結局、自分のために
相手を励まそうとしていたのだな、
そう思うんですよ。
悲しみや苦しみを完全に感じ切ることなく、
中途半端に復活する方が
後からもっとしんどい目に遭うと
今は知っています。
だから、
本当に相手の事を思うのならば
思う存分、
悲しみや苦しみを感じ切る事の出来る
環境を作ってあげる。
いたずらに共感することなく
フラットな状態で側で見守る。
これが、
私にできる事なのかなって思います。
今、こんな世の中ですが
人生を楽しむことができる環境に置かれている人たちは
思い切り、楽しめばいいと思っています。
もしかしたら明日、
人生を楽しめなくなる何かが
起きるかもしれないわけですから。
それに、地球規模で見た時に
その【楽しい】というエネルギーって
【苦しい】【悲しい】というエネルギーを相殺するために
必要だと思うから。
楽しめる事に
罪悪感を感じるのではなくて、
感謝をしたい。
楽しみつつ、
自分にできる事をやる。
それでいいんじゃないかなって
思っています。