最近思い出したのですが、
私の幼少期って
絶望にまみれていたのです。
という表現は
ちょっと大袈裟ですが、
一番最初の絶望は
3歳くらいの時。
お気に入りの靴が履けなくなって
酷く悲しみました。
自分が成長している事が分からなかったので、
靴がどんどん小さくなっていると
思い込んでいました。
『お気に入りなのに。なんで小さくなるのさ!』
と、靴に怒っていました。
靴に裏切られた気がして
悲しかったのを覚えています。
次は、4歳くらいの時。
お兄ちゃんが欲しかったから
母親にお願いしてみました。
母親は、
「お兄ちゃんは無理やなぁ。」
そう、困ったように答えました。
お兄ちゃんが手に入ると
期待に胸を膨らませていたのに。
自分の望みが現実にならないと学び、
絶望しました。
次は、小学生の時。
祖母が事故で急に他界しました。
私が大きくなったら
祖母とやりたい事がたくさんあったのに。
その夢も願望も
一瞬で砕け散りました。
『神様は存在しない。』
『世の中は不公平。』
そう、強く思ったのを
今も覚えています。
他にも細かい
私にとっての絶望がたくさんあって
そんな体験が蓄積されていった結果、
いつの間にか
人にも世の中にも期待しないし、
逆に期待もされたくない、
そういう生き方になったみたいです。
期待しない、されないのは
私にとって心地がいい生き方です。
願望は投げるけれども、
叶うと期待をしていないので
叶った時は嬉しいけれど
叶わなくてもガッカリしません。
誰かの期待に応えるために生きることを
小さな時にやめました。
誰かからの期待を
プレッシャーに感じるような年齢に達する前に
期待に応える生き方を止めたので、
期待に応える喜びを知らない気がします。
両親の期待の数々を裏切ってきましたが、
『両親が勝手に期待をしていただけ。』
そう割り切っているので、
期待を裏切る事に
罪悪感がさほどありません。
この記事に綴った事は
幼少期の私にとって
苦しい経験ではあるのですが、
その後の自分にとっては
心地のいい生き方を開拓するための
必要な経験だったなって、
過去を思い出しながら思いました。
ちなみに
幼少期の事を思い出したきっかけは
義母が夫の幼少期を話してくれた事なのですが、
義母に私の幼少期の事を話したら
大爆笑されました。
苦しかった経験も、
最後は笑い話にできるって
私にとっては最高に幸せな事です。